昨日の奨成の横顔を観ていて、「人生のまわり道」ということを、ふと感じた。
同じ到達点に届くにも、あるいは自分の目標としていた何かに近づくにも、回り道をせずにそれが出来る者、どうあがいてもそれが出来ない者、回り道をして出来る者がいる。
世の中には、圧倒的に「回り道をする暇もなく限界を知ってしまう者」、あるいは「限界を知る前に門前払いを食わされる者」が多い。
野球界は、そればかりじゃ。
今は打線のカナメどころか大黒柱と化した小園にしても、結構な回り道をした。
3年前は「カープ打線の3番を任された若手」も、その後は公私で凸凹道じゃった。
今季序盤に低打率ながら攻守に活躍した二俣とて、順調に育ってきたとは言い難い。
ただ、他の誰よりも、奨成がこれまで辿ってきた道のりが、いかに回り道であったかは、彼の年俸の推移を見れば一目瞭然じゃ。
700万から、せいぜい900万円の間をウロチョロしてきた。
ドラフト1位のプライドは相当のものじゃったろうし、アピールしても使って貰えない苛立ちや、我々には解らぬ微妙な人間関係もあったじゃろう。
20代前半の低迷期は、眼にそうした苛立ち、迷い、焦り、不平などのマイナス要因が映っていたように感じた。
ドラフト1位ということを別にしても、もう少し年俸を上げるとか、一軍に帯同させるとかいった措置があっても良かったようにも感じた。
そんな公私の廻り道があった中で、ここ1年以内に、彼の内部でどんな変化が、あるいは人との出会いとか、天の啓示みたいなものがあったのかは想像できない。
ただ、水曜の試合では、打った当初の相手が41歳の石川爺さんだったとはいえ、打席に立つ彼の表情は以前と較べて涼やかで、その眼は落ち着いて澄んでいた。
技術的なことはともかく、彼の心の状態は、たぶんインタビューで答えた通り、謙虚に打席に向かって、純粋な姿勢で、真摯にボールを見ていたんじゃと思う。
親鸞上人も、若い頃は煩悩に苦しみ、パウロはイエスを迫害したが、後に回心して熱心な伝道者として殉教した。若い頃、まだ訳の解らんうちは色々あるんじゃ。
そんな廻り道をしてきた奨成が、脱皮したと思われるあの顔つきで、これからどんな活躍を見せるか、ワシはそれだけが楽しみじゃ。