ホークス物語77
藤井将雄は、68年生まれ。両親別居で母親が女手一つで育てた。唐津商・日産九州を経て95年入団してきた。『王監督を胴上げしたい』と決意を述べ、グングン力をつけた。99年には勝利の方程式を担って、最多ホールドのリーグ記録を打ち立て『炎の中継ぎエース』と呼ばれる様になった。
自らの活躍だけではなく、選手のまとめ役にもなる。当時、工藤が投手陣立て直しの為に嫌われ役を演じ、若手と距離が出来ていたが、間に立って投手陣を結束させる事に尽力した。
若手には『工藤さんは御前達の為に言ってるんだ』と諭し、工藤には『もう少しで彼らも気付きますから』とサポートした。時に工藤の奥さんにも電話を入れ、フォローした。他人の気持ちが非常によく分かる心配りの人。投手陣の実質的リーダーだった。
初優勝に大貢献している最中、肺癌が彼を襲う。夏頃から咳き込む様子が見られた。オフには入院生活に入った。球団も、こういう場合、普通は契約更改しないが、年俸倍増でその労苦に報いた。
余命3か月の診断を覆し、翌年も2軍戦で6試合投げる。最後に王監督が1軍マウンドを用意したが、『僕が上がると誰かが落ちる』と固辞した。最後までチーム愛に溢れた選手だった。
2000年、V2達成を見届けて10月13日死去。享年31。告別式には移籍した工藤・下柳も参列した。背番号15は、事実上永久欠番となり、ドームの15番通路は『藤井ゲート』とされ、記念プレートと最後のメッセージが掲げられている。
最後のメッセージには
『プロ野球選手は、周りの人々に夢と希望を与えると言われますが、僕は逆です。沢山の人々から夢と希望を貰ってきました。』と感謝の気持ちがつづられている。
弟の様に可愛がられた斉藤和巳は、現役時代や引退後も唐津の彼のお墓に通っている。『進むべき道に迷うと、必ずここに来て、藤井さんに相談します。彼なら、こういう時どうするかと』
藤井は、その死後も、後輩達を導いてくれている……