ホークス物語64(ダイエー編)
下柳剛は八幡大学(現九州国際大学)で、いじめを受け1年で中退。しばらくは何もせず、バイクを乗り回していた。恩師の紹介で新日鉄君津に入り、徹底した走り込みと、ウエイトで肉体改造を図って200球でも投げられる体力をつけた。
ダイエー入団後、制球難だったが、貴重な速球派として権藤コーチが見込み、一軍で経験を積ますことを田淵監督に進言した。しかしながら目先の勝利を優先する監督に受け入れられず、二軍で燻っていた。
翌年、根本監督に代わると、即一軍に上げて下柳の強靭なスタミナを活かし、毎日の様に打撃投手・試合登板・ブルペンと過酷な投げ込みで課題の制球難を克服させた。300球以上投げた日もあったという。
権藤コーチからは『ベースの幅に投げれば、どんなに高くても低くても使ってやる。』と勇気づけられ、兎に角、腕を振り続けた。毎日、非常に多くの球を投げる事で自分にあったフォーム、怪我をしない投げ方を身に着けた。また、打撃投手をする事で、打者がどう言うボールが打ち難いのかを学んで行った。
93年6月5日の近鉄戦。9回裏に8-2の大差をひっくり返され逆転負けした。負け投手は下柳だ。『これはホテルに帰って厳しく怒られるだろう』と覚悟していた所、ミーティングで監督が『今日の責任は俺にある。すまなかった。集まってくれてありがとう。以上。』と、スーッといなくなった。
『これには参った。もっと、ちゃんとせんといかんやろと気付き、それ以降は死ぬ気で頑張った。』と、後に語っている。
94年には62試合に登板。11勝を挙げ『アイアンホーク』と呼ばれる活躍を見せる。その後、日ハム武田とのトレードで移籍、216打席三振なしのイチローから三振を奪い『イチローキラー』と話題になった。阪神時代の2003年の日本シリーズ第5戦では、斉藤和巳に投げ勝ち、2005年には最年長最多勝。2007年には最年長開幕投手。楽天も含め129勝の実績を残している。
ダイエー時代に見出され、鍛えられた強靭なスタミナで数々の記録を作っていった。 根本監督・権藤コーチという名伯楽との出会いが、下柳剛という名馬を世に出したのだ。
指導者の役割は、本当に大きいと思う……