八王子のヒマ鷹 (ID:MzY2OTd)
南海ホークス物語54

昭和41年から43年にかけて、南海電鉄は重大事故を立て続けに引き起こした。浅香山の置石脱線事故、尾崎・樽井間の鉄橋転落事故、天下茶屋の正面衝突事故。みな死傷者を200名以上出す大事故である。

運輸省は管理体制改善に向け経営陣刷新。白羽の矢が立ったのが日本スピンドル社長で関西経済同友会の重鎮・川勝傳氏である。

川勝社長は大命題の安全対策に尽力し経営改革に成功。南海電鉄は少しづつ信頼を取り戻す。また、社員の一体感醸成のシンボルとして、球団経営にも注力した。

当時、ホークスは鶴岡体制の終焉を迎えており、守旧派(鶴岡派)を抑えて改革派(蔭山派)の野村を監督に抜擢、最下位に落ちたチームを再強化して毎年優勝争いができるまでに育てた。

そんな中、サッチー問題から野村解任の動きが起こるが、川勝オーナーは最後まで野村を守ろうとしていた。結局、球団を経済的に支えていた後援会からの要請で野村を切らざるを得なくなったが、重光オーナーに頭を下げ、野村のロッテ入団につなげている。

解任の件で川勝オーナーを取材した記者は、「泣いて馬謖を切るという言葉があるが、川勝さんは『チーム改革に努力していた野村君を守れなかったのは私の力不足』と、本当に涙を流された。こんなオーナーの下で働ける選手は幸せだ。」と感想を述べている。

「球団経営がどんなに赤字でも、私の目の黒いうちは決してホークスは売らない。」そう話されていたが、昭和63年5月死去。電鉄経営陣は、オーナーの死後直ぐに球団売却に動き、8月ダイエーへの譲渡が決定した。

オーナーの死後3か月という余りにも早い動きに選手もファンも大変なショックを受けたが、それだけ川勝オーナーの影響力が大きかったということか。

電鉄のシンボルとしての球団を愛してくれた川勝傳オーナー。九州移転で、当地の野球熱を再び呼び覚ましてくれた中内功オーナー。世界一を目指し「金は出すが口は出さぬ」孫正義オーナー。

ホークスは、本当にオーナーに恵まれていると思う……
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⚾️好きな選手:牧原、周東、モイネロ、スチュワート
バスケ編集削除⚽Jリーグの日🕑

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