南海ホークス物語51
「3776米の富士の山と立派に相対峙し、みじんも揺るがず、何というのか金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は良かった。富士には月見草が似合う。」太宰治の「富嶽百景」の一説である。
昭和50年5月22日、野村克也は600号本塁打を放った。日本で二番目、捕手としては世界初の大偉業である。しかしながら、500号の時もそうだったが、その試合の観客は発表で3000人、実際は500名程度であろうか。テレビ中継は勿論されず、翌日の新聞の扱いも非常に小さいものであった。
ライバルのONが、毎日5万人近くの観客の中で試合し、テレビ中継を通じて日本中のヒーローになっている中、殆ど注目を集めず、まるで別のスポーツの様な扱いである。
「自分がこれまでやってこれたのは、長嶋や王がいたからだ。彼らはいつも人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目に触れないところで寂しく野球をやってきた。ONはヒマワリ、私は日本海の浜辺にひっそりと咲く月見草。そんな花があっていいと思ってやってきた。」当日のノムさんのコメントだ。
ONに対する対抗心、畏敬の念、嫉妬心、劣等感。様々な感情を自らのエネルギーに変え、その後も努力を積み重ねてきた。現役引退後も「野村スコープ」という新らしい武器で野球解説に革命を起こし、ヤクルト監督就任後は4度優勝、3度日本一、阪神・楽天の監督も務めて弱小球団の強化に努力した。
講演会は毎回満員札止め。「野村本」は野球書の中でダントツの売り上げを更新し続けてた。 6年前、宮崎で開催されたジャイアンツ・ホークスのOB戦、前夜祭はノムさんのボヤキ節で大いに盛り上がり、当日も、一塁側のONに負けない存在感を三塁側で示していた。
ONという富士山に、みじんも揺るがない野村克也という月見草が立派に相対じし、私は誇らしかった……