八王子のヒマ鷹 (ID:MzY2OTd)
南海ホークス物語㊺

私の父は南海と結婚した様な人で、私が小さい頃ホークス恋しさに我が家は中百舌鳥に引っ越した程だ。その反動か、母は大の野球嫌いだった。高校時代に父が亡くなっても、母の野球嫌いは変わらなかったが、一人だけ関心のある選手が出来た。私と同じ歳の久保寺雄二である。

昭和52年、高卒ルーキーの久保寺は、デビュー戦で阪急の速球王・山口高志から二塁打をかっ飛ばした。たまたまテレビでみていた私が「この選手、僕と同い年やで」と言うと、「ふーん。あんたも頑張らなあかんな。」母は初めて野球選手に興味を持ったようだった。

その後、新聞で久保寺の成績を毎朝確認するのが、母の日課になった。「久保寺君、昨日はホームラン打ったんやね。」嬉しそうに話すのだった。

数年後、私が就職し家を出て赴任地の名古屋の独身寮に入ると、母の久保寺熱はヒートアップした。球場に足を運び、サインを貰ったと言っては名古屋まで送ってきた。時には、背番号入りの鉛筆や下敷きまで送ってくるようになった。「同年の野球選手が頑張っているのだから、お前も頑張れ。」というメッセージだったかもしれない。

昭和60年の正月、プロ野球選手大運動会がテレビで放送された。80m走に出場した久保寺は、屋敷や蓑田など並みいる俊足ランナーを抑え優勝した。母は「久保寺、行け!、久保寺、行け!」と大騒ぎだった。日頃テレビに出られない贔屓選手の活躍に、我が事の様に喜んでいる様子であった。

そんな母の喜びを吹っ飛ばすニュースが3日後入ってくる。正月明けの5日、朝刊を見て愕然となった。「南海久保寺、急死」の報であった。数日前まで、あんなに元気だったのに。急性心不全とのことだった。

暫くして、母から電話があった。「新聞みた?」電話の向こうで泣いているのが分かった。実働8年、キャプテン・藤原の背番号7を引き継ぎ、将来を背負って立つ逸材。26歳の若さであった。それ以上に、母にとっては息子と同い年の選手ということで、家族を亡くした様な寂しさがあったのかもしれない。数年後、母も他界。

うちの物置の中には、「久保寺の箱」がある。黄ばんだサイン色紙やサインボール、鉛筆等が入っている。

私は年に一度、物置を掃除し、この早逝の野球選手と、母の思い出が詰まった箱に手を合わせることにしている……
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⚾️好きな選手:牧原、周東、モイネロ、スチュワート
就活編集削除⚽Jリーグの日🕑

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