南海ホークス物語㊵
大阪府豊中市刀根山のマンションに野村監督一家は住んでいた。当時ノムさんを師と仰ぐ江夏と柏原も、同じマンションに越して来ていた。監督解任を受け二人は「こうなったら徹底的に戦いましょう。僕らは監督にどこまでも付いていきます。」と話し、マンションに立て籠った。世に言う「刀根山籠城事件」である。
球団が監督解任後、野村をロッテに捕手として無償トレードを決めると、江夏と柏原も「僕らも一緒にロッテに出してほしい。」と球団に申し入れた。柏原は、日ハムにトレードが決まったが、「ロッテ以外なら引退する。」と拒否の姿勢を示す。江夏の行き先も決まらず、問題は長期化の様相を呈して来た。
膠着状態の中、ノムさんがついに動く。柏原に対し、日ハム移籍を説得。江夏については、広島・古葉監督に電話して、南海にトレードを申し入れるよう依頼した。「まだまだ将来のある二人。この問題で才能ある野球人を引退させる訳にはいかない。」ノムさんの言葉である。
こうして、広島・江夏、日ハム・柏原が誕生し、広島は昭和54年・55年連続優勝、日ハムは56年優勝。江夏は両年のMVP「優勝請負人」と呼ばれた。柏原も4番打者として56年のペナント獲得に大貢献。野村解任が無ければ、54年〜56年まで南海が三連覇していてもおかしくない程の二人の活躍ぶりであった。
刀根山籠城最後の日、ノムさんが移籍を承諾した二人にこんな話をした。「今まで俺みたいな者に付いてきてくれてありがとう。だが、お前達の野球人生をここで終わらせてはいけない。家族やファン、これからは、そういう人達の為に野球をやれ。。。」
聞きながら、江夏と柏原は男泣きに泣き、最後の夜を過ごしたという。「新選組の隊員の命を守る為、自ら官軍に投降した近藤勇との別れの様だった。」江夏は後に語っている。
ファンにとっても、南海・野村、江夏、柏原との永遠の別れとなった……