山川、ドスコイを50回は見たい! (ID:MzY2OTd)
南海ホークス物語㊲

江夏は、19歳で奪三振の世界記録を作ってしまうなど、若くして投手として頂点を極めた。その為、監督やコーチから叱られた事がないという。阪神時代の末期は、体調不良で成績が下降したが、吉田監督やコーチも「腫れ物に触る」様に江夏に接した。

父親は生後間もなく失踪しているので、母子家庭で育った。誰にも叱られずに人生を送ってきだ。「全体練習をサボったり、自分でもワガママな態度を取っているなと思った事もあるが、それでも阪神のユニフォームを着ているときは、怒ってくれる人がいなかった。」江夏は語っている。

南海移籍後の初戦は見事なピッチングであった。昭和51年の大阪球場開幕戦、近鉄打線を相手に8回まで散発3安打に完封した。かつての速球は見られなかったが、コーナーにきっちり決まる制球力と、緩急を使った投球術で猛牛打線はきりきり舞いの9三振に終わった。

ところが、長年酷使してきた左腕の状態が、安定しない。この頃、血行障害も発症して、50球を超えると極端に握力が落ち、生命線のコントロールを乱す事が多くなった。 5回でノックアウトされたある日、野村監督が声をかける。

「今日は俺の車で帰れ。家まで送ってやる。」。車内でノムさんが話し出した。「お前、八百長をやってるんと違うか?開幕の近鉄戦、俺は1ミリもミットを動かさずに済んだ。それほど完ぺきだったお前の制球が、なんであんなに乱れるんや!」

厳しい口調で、江夏を叱責したのだ。 これを聞いた江夏。「生まれて初めて怒られ、胸が熱くなった。俺に親父がいれば、こんな感じだったのかも知れない。」そう思ったという。

この時、江夏は血行障害のことを監督に打ち明け、ようやく治療に入ることになるが、何より「自分の左腕をしっかり治して、監督の期待に応えたい。」そんな気持ちになったと言うのだ。その後、江夏は治療を続け、翌年、見事にセーブ王として復活する。

教育評論家の尾木ママがこんな事を話している。「例えば、引きこもりの子供たち。彼らは、親から叱られず、寂しい思いをしている。それが問題を悪化させる。本当にその子の事を思うなら、怒る場面では、思い切り怒るべきだ。」

愛情ある叱り、部下はそれを待っている……
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⚾️好きな選手:牧原。今日から山川
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