南海ホークス物語P
『世界初のカットボーラー』皆川は、当初、左打者が不得意だった。西鉄の怪童・中西太が『私は誰の球でも工夫して打てだが、唯一、皆川君のシンカーだけは、どうしても打てなかった。』と語っている様に、右打者は、ほぼ完璧に抑えたが、左には面白いように打たれた。日本シリーズでも、巨人の王に痛い所でよく打たれた。
昭和43年のキャンプ。一計を案じた同期の野村が「左打者対策で小さなスライダーは投げられないか?」と相談を持ち掛ける・・・・・・「速球の握りを少しずらせば、投げられるかもしれない」皆川が答えた。
翌日から、皆川は毎日、この「小さなスライダー」を練習した。練習時間の殆どをこの新球のマスターに使ったという。・・・・空振りする程大きく変化しない。速球と同じ軌道で来て、バットが当たる寸前に「ボール1個分」だけ、スッと流れる・・・打者はことごとくツマリ、内野ゴロの山を築く事が出来た。
世界初の「カットボール」の誕生である。
これは、皆川が苦手にしていた左打者に特に有効であった。東映・張本、東京・榎本等、首位打者の常連も、全く皆川を打てなくなった・・・・皆川は結局、この年31勝を挙げ、「最後の30勝投手」になる。シーズン終盤には球団初の200勝を達成した。
チームは、阪急とデッドヒートを演じ、シーズン最終日に僅か1ゲーム差まで阪急を追い詰めた・・・・サイン盗みを全くしない鶴岡南海が、最後の意地を見せたペナントレースであった。
この新しい変化球は、その後、海を渡り90年代にメジャーで大流行する・・・・そして、ホークスにもいた武田が逆輸入し、今では日米の好投手にとって、無くてはならない球になったのである。
『私のカットボールは、苦手な左打者が居たからこそ、生まれた球だ。』皆川が語っている。 新しい技術というものは、『苦手なものの克服』から生まれるのかもしれない。
若い選手も、このキャンプは、そんなキャンプにして欲しい……