山川、ドスコイを50回は見たい! (ID:Yzg4ZDV)
南海ホークス物語N

昭和34年・南海日本一の表のヒーローは4連投4連勝の杉浦。影のヒーローは尾張スコアラーとマスコミが書き立てた。 スコアラーと言うポジションは持っていなかった各球団が、尾張の所にどんな分析手法なのか、次々と尋ねてくる。

これが三原監督なら、「企業秘密です。」と公開しない所だが、気前の良い鶴岡監督は、「野球界の発展に繋がるなら、隠さず教えてあげて下さい。」と、全てをオープンにしたと言う。 翌年には各球団がスコアラーを置くことになる。

噂は、海外にも届き、ヤンキースやドジャース監督も、来日時にスコアラーを連れて来て、「ミスターオワリのスコアリング手法を教えてやって欲しい…」と、大阪球場にやって来た。ヤンキースの名監督スティンゲルは「これ程、詳細に投手の傾向、打者の欠点を分析したレポートは、見たことがない。」と、大変驚かれたとの記録が残っている。

こうして、「尾張メモ」の分析手法は、瞬く間に日米の野球界に広がって行った。スコアラーによる戦力分析と言う、新しい戦法を開発した南海の『先行者メリット』は、比較的短期で消滅してしまう。

ところが、南海には、一人だけ誰も真似の出来ない域にまで、尾張理論の分析手法を進化させた男がいた……野村克也である。 昭和29年、当時45才だった尾張と同期入団の18才の野村は、尾張を父親の様に慕い、二軍戦が終わると必ず大阪球場のバックネット裏の尾張の横に来て、試合中の尾張の呟きをつぶさにメモして行った。

打者の狙い球の外し方、投手の攻略方法……後の野村ID野球の原型はこうして作られて行った…… 尾張を入団させ、スコアラー制度を日本で初めて導入した南海の、最大のメリットは、稀代の名捕手・野村克也が育った事であろう。

財を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上。

尾張氏は『上』の仕事をした事になる……
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⚾️好きな選手:牧原。今日から山川も
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