南海ホークス物語L
戦後再開されたプロ野球で、南海は昭和21年、23年に優勝するが、要因となったのは、終戦で復員した選手達をいち早くチームに復帰させた点である。……鶴岡監督は、選手一人一人に手紙を書き、地方を行脚して説得に当たった。食べるものも無い時代なので、畑も自ら耕し、彼らに食べさせた。こうした努力の積み重ねで、チーム力を素早く回復させたのだ。
昭和40年の退任の際は、東京オリオンズ(現在のロッテ)と 産経アトムズ(現在のヤクルト)から、熱心に監督に誘われていた。……蔭山新監督が亡くなった日、実は東京でどちらの球団と契約するか発表予定だったが、新監督の死去で急遽中止。涙の南海監督復帰発表になったが、どちらにするつもりだったかは、『もう一方の球団に失礼になるので、絶対に明かさない。墓場まで持っていく。』と発言。実際に、この話題には、亡くなるまで触れなかった。
監督に復帰時、背番号30は『蔭山にやった番号。。。俺がもう一度着ける訳にはいかない。そのことで、選手たちがあいつの遺志を忘れないでいてくれたらと思う。。。』と31番を着けた。
こんな人柄だったから、多くの人に慕われたのだと思う……