南海ホークス物語J
日本の野球を大きく変えたと言われるダリル・スペンサーは昭和39年〜43年まで阪急でプレーした。投手の癖と、捕手のサインを盗む技術をチームに浸透させた……シーズン後半になると、相手投手の球種が八割がた分かったと言うのだ……スペンサーは、昭和42年の阪急初優勝に大いに貢献する事になる。
「殺人スライディング」も他チームを恐れさせた。……滑り込む時、スパイクの歯を野手に向けてスライディングするこの危険なプレーは、阪急戦の一番の警戒点であった……わが南海も、ショートの小池やサードの国貞が、何針も縫う大怪我をさせられている。
昭和40年は、野村とスペンサーが本塁打王を争った……打率・打点は、野村が独走していたので本塁打王を取れば、戦後初の三冠王である……二人のホームラン競争は熾烈を極め、9月末になっても決着しない……そんな中で行われた大阪球場での阪急戦。……野村には「スペンサーのスライディングには気をつけろ…」との指示が出ていた……試合終盤、スペンサーが二塁打で出塁、次打者のヒットで、案の定、野村目掛けて突っ込んで来た。写真は、野村を蹴り飛ばした瞬間である。
「やっぱり、やりやがった!」南海ベンチは、総出でスペンサーに向かって突進し、阪急ナインもこれに応じ、大乱闘になった……中でも、普段おとなしい蔭山ヘッドコーチが、鬼の形相でスペンサーに立ち向かっている……自分の体の倍ほどある大男に、何度も投げ飛ばされながら突っ掛かっていくコーチを見て、野村は胸が熱くなるのを感じたと言う……「この人は、ここまでして、俺に三冠王を取らせようとしてくれている。」
悪い事は出来ない物である……数日後、スペンサーはオートバイで事故を起こし、脚を骨折。
野村はホームラン王となり、戦後初の三冠王が誕生した。
神様は、全てを見ていて下さったのだろう……