八王子のヒマ鷹 (ID:OTg4M2J)
ホークス物語80

大道典嘉は三重・明野高校から88年ドラフト4位で入団。

入団当初は、大きな体を生かした長距離打者として バットを長く持ちフルスイングする打法を続けていた。 打球の飛距離はチームでも群を抜いており、ホームランバッターへの夢を追いかけていた。

ところが、振り回すだけのバッティングでは確実性がない。入団5年の平均打率は2割を切った。 やがて、小久保や松中といった素質豊かな後輩が登場し 主力の座を奪われる。

それでも、ホームランの魅力を忘れられず バットを大振りしていた大道。 首脳陣が「もっと確実性のある打法に変えろ。」と指示しても聞く耳を持たない。

そんな大道を見て、三重県出身の先輩 ブルペン捕手をしていた山本譲が諭した。 「お前が打てないと、お前に協力している打撃投手・トレーナー・スコアラー、 そういう人達とその家族にまで影響があるんだよ。」

今まで、監督やコーチの言う事も聞かず 自分のポリシーを決して曲げなかった大道が この言葉で変わる。 それから、バットを「ふた握り」も短く持ち 極端なオープンスタンスで、確実にボールを捕らえる「大道打法」が完成した。

それまで、2割も打てなかったバッターが 勝負強い「3割打者」に変身した。96年以降、主に三番を任され、優勝に貢献した。日本シリーズでも打ち、解説の江川は『大道君は、球をとらえる非常に高い技術力を持っています。抑えるのは難しいですね』と語っていた。

その後、代打の切り札として活躍。『代打、大道』とアナウンスされると、球場は割れんばかりの歓声が起こった。生涯打率285。長打率405。通算代打本塁打15は当時の現役最多記録だった。『お客さんが歓声をくれる限り、俺は頑張りたい』と当時、話していた。

2000年、連覇の年 山本氏は病死。 王監督の胴上げの時 大道は、山本氏の遺影を掲げて 胴上げに参加し,大粒の涙を流した。

07年、巨人移籍。09年、親交のあった木村拓也コーチが練習中に急死。翌年引退するが、その引退会見で自らの引退については明るく話していたが『拓に報告に行き、あいつが好きだったビールをかけてやりたい。』とまた涙した。

自分の為ではなく、人の為に頑張り、泣くのも、人の為。

大道典嘉とは、そういう男だった……
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